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自己理解と自己発見のための服飾について

ブルターニュ展にいってきたよ

以前から、思っていた。画家はよく移動すると。

 

ピカソもミロだけでなく画家はその多くが、都会へ田舎へ国外へと移動する。そして気に入った場所を見つけるとそこに数ヶ月から数年暮らしながら絵を描いている。

そして戻ってきてもまた出かけていってその地で一生を終えることもあるほどだ。

 

なぜなのか。

移動すること(移動しないこと)と創造することには何か関係があるんだろうか。

そんなことを考えながら、西洋美術館で開催中のブルターニュ展に行ってきた。

ブルターニュとはどこか。

フランスの地理はワインを学んだときに部分的に覚えた。だからワインを消費するだけの場所であるパリの場所はあやふやだが、アルザスボルドー、ラングドックなどといった場所はイメージできる。

そのため、ワインの主要生産地でないブルターニュの場所がよく分からず、似た名前のブルゴーニュと頭の中で混ざってしょうがない。

 

調べてみると、ブルターニュ地方はフランス北西部の地域で大西洋に面しており、その南部にあるナント市にはロワール河が流れ込んでいる。

そのため未確認ながら、ブルターニュではローヌ河流域で作られるソーヴィニョン・ブラン主体のワインが多く消費されているのではないだろうか。

ブルゴーニュはもう少し寒冷な小高い土地なので、主要な白ワインのブドウ品種はシャルドネ。赤ワインはピノ・ノワール。消費される白ワインのほとんどはシャルドネだろう。

こう考えると、それぞれ名前は似ているがかなり気候が異なる地域だということがイメージできる。

ソーヴィニョン・ブランは晩春から夏の初めにかけて飲みたいワイン。個人的には草原でピクニックしながらサラダと一緒に味わいたい。きゅうりの塩もみや焼きピーマンと合わせたら最高。

一方シャルドネはキンキンに冷やしたものを晩秋から冬に飲みたい。超個人的な好みだけど泉鏡花の文章のようにキレのあるドライなシャルドネが好きなので、夏に飲むとナントなく味がゆるんでしまうような気がする。

 

ブルターニュはそんな気候が穏やかで過ごしやすい場所だから、多くの画家が訪れたのだろう。たぶん。

 

そんなことを考えながら展示室へ向かった。

 

オーディオ解説は必ず借りる派なので、今回も借りた。が、聞き始めるとすぐバッテリーが切れてしまったので取り替えてもらった。珍しい。

 

気をとり直して人の波にさからわず、ゆっくりと一つ一つ絵を見ていく。

フランス革命後だからみんなこんな風景を求めていたのかな」と後ろから話し声が聞こえてくる。

 

途中に掲示された解説も全部じっくり読む派なので、展覧会を回るペースはいつも遅い。

岡本太郎は展覧会に行くとものすごいスピードで会場を歩き回っていたそうだ。そして気に入ったものだけを食い入るようにいつまでも見つめていた。

何かの本に書いてあったので、同じやり方で自分も回れたら面白いかもしれないといつも思う。けれど休日の、それも東京の美術館では大勢が列をなして順番に一つ一つ真面目に見て歩くので、自由に動くことはむずかしい。

 

解説の中でも興味深かったのは、「ブルターニュのイメージが大量に生産消費されていくなかでむしろその多様性が取捨されていった」というフレーズ。

 

かつてブルターニュはフランスとは独立した国家として存在していた。だからフランスの人々にとってブルターニュは異郷の地であった。

彼らはフランス人とは違う文化、風習、宗教、言語を持っている。

そういった「自分(フランス)」に対しての「他者(ブルターニュ)」が存在する場所としてブルターニュは「発見」された。

次第にその土地を訪れる人が多くなるにつれ、ブルターニュで描かれた絵、描かれた書物、旅行した人の話、そういったものが記号として次第に多くの人に「消費」されていく。そしてそれによってブルターニュの持っていたフランスとの違い、差異はわかりやすいものだけが残され、人工的に加工された「特徴」として多様性の象徴になってしまった。

 

「文字による生きたブルターニュ」に惹かれて人々が訪れる以前、人は何かあるかどうかも分からない「今ここにないもの」を求めていた。

いくつもの並べられた絵を見ていると、「探求」し続ける芸術家たちとその後を追う「消費者」という構図が見えてくる。

そしてさらにそこには同時に、隠されてもいない、「探究される」側の人々の警戒や不安、恐れといったものも、描きこまれている。

 

絵を見ていると、画家は常に迷いの中にいるような気がしてならない。昨日の自分に否定され、明日の自分を否定しながら生きているような。

そうやって迷いながら絵を描き続けるのが画家の中には、実はすでに「発見される以前」のブルターニュ的なものがあったのではないか。

画家たちがブルターニュを「発見」したのではなく、ブルターニュが画家たちを発見した。

だから画家たちはブルターニュを見つけることができた。

そんなことを考えながら展覧会を後にした。

 

今こんなふうに自由に居場所を変えながら、自分が「発見」されることを探している人はいるのだろうか。

ふらりと立ち寄った地が気に入って、2ヶ月ほど滞在する。

家に帰ってきても心は彼の地に置いてきたままのように感じる。

そんな経験に、無性に憧れている。